創造社会はくるのか -学びの対話ワークショップに参加してみて-

今日、SFC Open Research Forum 2011 – 学問ノシンカで行われた、学びの対話ワークショップに行ってきました。

その冒頭で、「消費社会の次は情報社会が来た。その次は、創造社会が来る」というようなお話がありました。

たしかに、FabLabだとかMakeだとか、DIYがちょっと流行ってるのを見ていると、創造が徐々に社会に浸透して行ってる感じはします。ただ、技術の進歩で創造することのハードルは下がっているとはいえ、依然として創造するためには多大な時間と労力がかかるのではないでしょうか。

それを解決するためには、創造をより楽にするようなシステムがあればいいと思うのですが、難しいのは、楽に創造できるようになった結果みんなが同じようなものを創造してしまっては何もおもしろくないということです。オリジナリティのあるものを楽に創造できるようにする必要がある。難しいですね。それで僕が注目しているのが編集だったりキュレーションだったりするわけです。なにかを0から創造するのではなく、すでにあるものを組み合わせて何かつくるのは簡単そうじゃないですか? それでいて組み合わせが無限大であればオリジナリティのあるものをつくれる。そういう思いもありつつ、今の研究をやってます。

で、色々考えつつ今日もらったラーニングパターンを見てみると、「新しい関係性を発見し、自ら意味を編集・構成していくような『創造的な学び』」という記述がありました。ここでの創造は、たぶんアウトプット(もの)を創造するのではなく、プロセス(こと)を創造するという意味だと思います。あるいは知識を創造するという意味でしょうか。自分も学びであるとか、知識の構築にはとても興味があって、インタフェースだったりインタラクションデザインの観点から、どうやったら普段ネットで情報収集しているのを知識構築につなげられるのかなあというのは考えています。でもこれも難しい。

そういうわけで創造社会が来るのはまだ難しいんじゃないかという気もしますが、CGMの普及以前と以後を比べてみると、創造社会にかなり近づいてる感じもします。なんかまとまりのない文章ですが、創造社会についてはとりあえずこのへんで。

 

あと、ラーニングパターンについてですが、パターン・ランゲージという名のとおり、コミュニケーションに使うことが目的のようです。それであれば、もうちょっと会話の中で使いやすい名前をつけてほしいなあと思いました。例えば「プロトタイピング」はそのまま使えますが、「学びの共同体をつくる」というのは単語じゃないので使いづらいです。もちろん概念としては伝えられるのですが、言葉にすると話者によってゆらぎが大きいかなと。共通理解を育む上では、やっぱり名詞のほうがいいなあと思いました。